写真は左から、木田美智子看護師/「みらい塾」第5期奨励生、若師孝之アンテナショップ奄美店主兼パーカッション奏者、 池田むつみ歌手PROFILE:(きだ・みちこ)21歳で上京。医療機関で看護師として勤務をはじめる。現在は企業の産業保健職として、社員の健康管理に携わる。以前からエンターテインメントを創る側の仕事に憧れており、みらい塾に応募。「みらい塾」第5期生としてエンターテインメントを創るのに必要なスキルや考え方を学んでいる(わかし・たかゆき)両親の思い出の味をベースに日々料理の研究を重ねながら、吉祥寺のハモニカ横丁で本格的な奄美の郷土料理を振る舞う。大学生のときからパーカッション奏者としても活動(いけだ・むつみ)幼い頃に祖父から唄あしびぃ(遊び)をしていた時の楽しさや、祖父が喜ぶ姿を見て、歌うことが大好きになり歌手活動をはじめる。代表曲は「おたうり」PHOTOS:KAITO IWAKAMI人々の心に火を灯す機会を提供することを目的に、一般財団法人渡辺記念育成財団が立ち上げたEverWonderプロジェクト。今回は、次世代の芸能プロデューサーを支援する「みらい塾」第5期奨励生の木田美智子(看護師)が中心となり、同郷の奄美大島出身者たちをゲストに招き「地方を飛び出して自分らしく生きる」をテーマにディスカッションをお送りする。看護師 / みらい塾5期生 木田美智子(以下、木田):今日は奄美大島出身で、現在は東京で自分らしく活動している方々にお集まりいただきましたが、はじめに故郷を離れて都会に出てきたきっかけや理由を教えてください。アンテナショップ奄美 店主 / パーカッション奏者 若師孝之(以下、若師):私は奄美大島出身の両親が里帰りをした際に生まれました。大学のときに上京して、パーカッションをはじめますが、パーカッションだけで食べていくことは難しいと思ったので、色々な職を転々としていました。イベントスタッフや飲食店の店員、Barの求人に応募したらなぜかキャバクラのボーイをすることになったこともありました。現在は、居酒屋で奄美の料理を振る舞っています。木田:若師さんはいつ頃から奄美の料理を振る舞うようになったんですか?若師:本格的に飲食店で料理を提供し始めたのは10年前です。当時は、新宿のゴールデン街のお店で働いていたのですが、祖父が亡くなったときに故郷の奄美のことをもっと知りたいなと思い、奄美料理に挑戦してみることにしました。最初は適当に作っていたんですけど、次第に有名な店のインタビュー記事を読んで勉強して、パパイヤの漬物など自分で1からちゃんと作るようになりました。木田:若師さんの奄美料理は家庭的な味を忠実に再現していて、とても美味しいですよね。若師:ありがとうございます。たぶん、奄美の代表的な家庭料理「油ぞーめん」は東京で僕のが一番美味しいです(笑)木田:池田さんはいつ上京してきたんですか?歌手 / 六調 看板娘 池田むつみ(以下、池田):私は幼少期から歌手になりたいと思っていたので、18歳のときに音楽の専門学校に進学するために上京しました。進学先の日本工学院専門学校のミュージックカレッジのアーティスト科は八王子校と蒲田校にあったのですが、島で育った私にとって都会での暮らしは不安だったので、八王子校に通うことにしました。しかし、初めて八王子を訪れたときに、街頭ビジョンや人の多さに圧倒されて間違えて渋谷に来てしまったと思いました(笑)現在は、奄美の料理やお酒を提供するBarで働きながら、歌手活動をしています。木田:私も18歳のときに芸能に携われる仕事に就きたいと思っていたのですが、奄美の人は手に職をつけることを重要視しているので、なかなか自分の想いを素直に伝えることができませんでした。加えて、兄弟も多く芸能を学ぶための学校に進学するには経済的にも難しく、看護の専門学校に進学することを決めました。池田さんは両親の反対とかなかったんですか?池田:もちろん大反対されました。高校で進路を決めるときにどうしても芸能の専門学校に進みたいと思っていたのですが、看護師や歯科衛生士、調理師など手堅い職につける進路に進むべきだと言われ、とても揉めました。若師:島唄などがあり、奄美の人にとっては歌が身近な存在だからこそ、音楽が仕事になるという考えがあまりないですよね。池田:そうなんです。どうしても芸能がやりたいなら、手に職をつけられる学校に進学し、放課後や休日にそういう活動をしなさいと言われました。しかし、私は中学生のときから、芸能コースのある高校に進学したいと言っていて、芸能への強い想いを持ち続けていることが親に伝わったのか、最終的には芸能の道に進むことを応援してくれました。続きはこちらでお読みいただけます。https://www.wwdjapan.com/articles/1476633